1970年 北高火災

第9章 母校火災  ※札幌北高70年誌(1976年11月1日発行)より

 学校粉争の頂点に於いて、本校は炎上した。この二つが関連あるかどうか、いまだ解明されていないので、憶則は避けたい。ここでは新聞の記事(北海道新聞)を復元することで、当時の状況を伝えることする。混乱した当時の記憶は各人に依ってさまざまでもあり、主観の入ることを怖れるからである。
 新聞報道に依っても、〈不審火の疑い〉〈放火の疑い強まる〉〈未明の放火〉〈放火と断定〉とその原因の推定も移ってきているが、遂に解明されないまま現在に至り、特捜本部も解散された。当時北高にあった職員の苦悩は筆舌に尽くしがたいものがあるが、それを客観的資料として残すことは到底不可能である。
 ともあれ三回目の火災を契機に、粉争は急速に鎮静していった。

目次) <第1回火災> <第2回火災> <第3回火災>

★★★★★ <第1回火災> ★★★★★ 1970年3月11日 19:40頃 発生 『職員室+17教室を焼失』

●こんどは北高焼く/木造17教室と職員室/不審火の疑い/入試答案は無事 〈昭和四十五年三月十二日朝刊 一面〉

 全日制の卒業式が終かったばかりの道立札幌北高校で、十一日夜階段下の道具室付近から出火、木造部分の旧校舎の大半を焼失した。入試答案や学籍簿など重要書類は出火と同時に持ち出し無事だったが、道内では二月二十日夜、渡島管内松前町の松前中学校が全焼するなど、これまでに七件の学校火災が相次ぎ、道教委でも厳重注意を通達した矢先。札幌北署で原因を調べているが、出火元は火の気がなく、不審火の疑いも持たれている。

 同日午後七時四十分ごろ、札幌市北二五西一一、道立札幌北高校-上野秋造校長-南側校舎の東端、二階に通ずる階段下の掃除用具などの道具室付近から出火、南側校舎の新館から南東側の部分、木造モルタルニ階建て延べ約八百平方メートルを全焼、火は同時に同校舎とL字形につらなる東側校舎にも燃え広がり、同校舎、木造モルタル塗り二階建て延べ約千百平方メートルの合計延べ千九百平方メートルを全焼、同九時過ぎ消えた。この火事で職員室のほか、普通教室十七教室が焼失した。
 校舎が古い木造だったため、市消防局は第四種、二十八台の消防車を出動させ、消火に当たったが、あっという間に燃え広がり、南側校舎の中央部から西側の鉄筋コンクリート三階建ての管理棟や新校舎、屋内体育館などへの延焼を食い止めるのがやっとだった。

 一方、さきに行なわれた入学試験の答案は、この日午後五時まで南側校舎新館三階の図書館で採点されていたが、その後管理棟事務室の大金庫に保存され、出火と同時に、学籍簿、成績表などとともに持ち出され無事だった。
 また同校は、十日に全日制の卒業式を行ない十二日まで全日、定時制とも休みで、負傷者はなかった。
 原因については札幌北署と市消防局で調べているが、出火場所とみられる掃除用具などの道具室やその付近に火の気はなく、この日、宿直だった町田正義教諭も「午後七時前、校舎をひとまわりしたが、どこにも異常はなかった」と言っている所から不審火の疑いも持たれている。

 同校は二十八年七月、この日燃えた主校舎が建ち、その後、屋体、新校舎などを次々と増築。現在木造部分は五千四百四十平方メートル、鉄筋部分は八百六十六平方メートルで、普通教室は三十、特別教室十五。生徒数は全日制千四百四十四人(今年度卒業生も含む)、定時制四百九十三人。
 なお同校では同夜緊急対策会議を開き今後の方針を協議したが、一、二年生の授業は十三日から焼け残った特別教室などで平常に行なうほか、定時制の卒業式は予定通り十四日に行なうことを決めた。

●卒業式騒ぎに火の追い打ち 〈同日付十五面〉

 またも学校火災-十一日、札幌北高校が焼けた。ちょうどこの日は、中川道教委管理部長名で道内の各学校に火災に対する”厳戒体制”の緊急通達が出たばかり。機動隊の出動要請という異常事態のなかで卒業式をすませた直後だけに、道教委、学校関係者にとって北高校の火災はたたみかけられるような災難だった。在校生はじめ同校を志願した受験生、父母などかけつけた人たちは、雪と風にあおられて舞い狂う炎に、ただぼう然とするばかりだった。

●ソレ答案だ、学籍薄も/先生と生徒も黒煙の中へ 〈同〉

 「入試の答案は無事か」「大丈夫、校長住宅に運んだ」-暗やみのなかで交錯する声。この日の札幌北高は、六、八の両日に終えた入試の採点日。それだけに、学籍簿など重要書類もすべて持ち出されたと聞いて上野校長は、ホッと深いため息をもらしていた。
 前日の卒業式では、一部過激派生徒が「卒業式粉砕」のビラをまき、壇上を一時占拠したり、インターを歌い、卒業証書を破るなどハプニングがあっただけに、この日の火災は、そのショツクにまさに″追い打ち″をかけた形。

 同校の卒業生で最初に火災を発見、通報した北二四西一〇、北大工学部四年、北川和正さん(22歳)は「卒論を書きあげるため、北大の研究室へ行こうと家を出たが、北高の近くまできたら、校舎南東かどの生徒通用門から通ずる北側教室の窓から炎が吹き出していた。二階の窓からも炎が見え、一人では消せないと思い、宿直室に行って先生に知らせ、さらに公衆電話から一一九番通報した」と雪の降りしきる中で、母校の焼け落ちてゆくさまを悲しげに見つめていた。
 火災発生の通報を受けたこの日の当直員、町田正義教諭は午後九時でガードマンと交代することになっていたが、「午後七時前、南側校舎一階の生物学教室に残っていた数人の生徒が帰ったあと、火気点検のため、校舎を見回ったが、異常がなかったので宿直室に戻りウトウトしていた。このとき男の人(北川さん)が火事だといってかけ込んできたので、消火器を持って生徒通用門(掃除用具入れ小部屋近く)に走ったが、火にあおられて…」とがっくり肩を落としていた。

  「火事」の知らせで真っ先に学校にかけつけだのは、校舎と道路一本へだてた公宅の先生ら二十人。降りしきるボタ雪と校舎から吹き上がる黒煙の中を次々と校長室に飛び込み、この日採点を終えたばかりの六百三十人の入試答案と学籍簿を入れた金庫を運び出した。
 やがて現場には在校生はじめ、十日、式を終えたばかりの卒業生、入試結果を気にした受験生、懐中電燈を手にした先輩、父母など約二千人が心配顔で集まった。だれいうとなく職員などの重要書類ケース、机などを出し始めたが、興奮の余り焼えあがる教室付近にかけ寄る先輩、泣き出す女生徒もいた。先生たちは「みんなありがとう。答案は無事です。危険なので近づかないように」とノドをからしていた。

 道教委の中川管理部長、斉藤指導部長らも現場にかけつけだ。幸い全焼をまぬがれたが、中川管理部長は「まことに申しわけない。学校火災だけはなんとしても防がなければ……」と沈痛なおももち。
 学校火災の防止については七日に異例の道総務部長通達で道内全市町村に再点検を指示したばかりだが、道教委では十三日に、全道の小、中、高校長代表や防災担当者を集めて学校火災防止対策協議会を開き、対策を再検討する、と表情をきびしくしていた。

●道教委、総点検を緊急指示 〈同〉

 札幌北高の火災を重視した道教委は、十一日夜、今後の対策を話し合った結果、道内各校に対し、”防火管理体制の総点検”を緊急指示することを決め、岡村教育長名で次の談話を発表した。
 学校火災がひん発、防火体制について指導の徹底をはかっている矢先、道立高校を焼失したことは申しわけない。道民に深くおわびする。北高校の授業については、残っている教室を利用、平常通り行なう見込みだ。入学試験の関係書類を搬出できたことは不幸中の幸いだったが、この機会に学校火災の防止に全力をあげていきたい。

●窓があけられた形跡/放火の線強まる/出火場所、道具室と断定〈同三月十二日付朝刊 七面〉

 十一日夜、十七教室と職員室の木造部分、約千九百平方メートルを焼いた札幌市北二四西十一、札幌北高の火事の原因を調べている道警本部、札幌北署、札幌市消防局は十二日朝から本格的な現場検証をはじめたが、いまのところ失火の要因となるものはなにも得られず放火の線が強いとみている。
 この検証は、今堀道警刑事課長、山下北署長らの指揮で行なわれ、出火場所は南側校舎の東端、二階に通じる階段下の道具室と断定した。
 道具室は全校の大掃除などのときに使うバケツ・ゾウキンなどが入っており、ふだんは外から南京錠をかけてある。同校教員などの話では、前夜も開いた様子はなかったという。
 しかし(1)道具室のドアはカギのかかったまま焼け落ちており、校内から道具室にはいったあとはない。(2)電気の配線がしていない。(3)道具室の東側に二つの押し開き式の窓があり、中からカギをかけるようになっているが、一つの窓があけられた形跡がある-などの点がわかり、物証はないものの、同本部は放火の線が強い、とみ
てさらにくわしく調べている。

【第1回火災で焼け落ちた 職員室前廊下 の写真】

★★★★★ <第2回火災> ★★★★★ 1970年5月25日 3:20頃 発生 『1教室を焼く』

●北高またも不審火/けさ一教室焼く/″放火の疑い”にショック〈昭和四十五年五月二十五日夕刊 十一面〉

 二十五日未明、道立札幌北高(長浜英作校長)でまた火事があり、普通教室一教室の内部を焼いた。焼いた教室は、三月に不審火で十七教室と職員室を焼いたとき焼け残った部分で、今度もまったく火の気がなかったところから、道警本部、札幌北署は放火の疑いが強いとして同日朝から綿密に現場検証している。
 同日午前三時二十分ごろ、札幌市北二五西十一、道立札幌北高校東側校舎の一年一組から出火、木造モルタル塗り平屋建ての教室、約三百二十平方メートルのうち、内部約七十平方メートルを焼いた。同教室をはさんだ工芸室と一年二組は天井をこがしたが、延焼はくい止めた。
 札幌北署と市消防局は道警本部の応援で同日午前九時半から現場検証したが、出火場所は一年一組教壇わきの窓側にある掃除道具箱付近と断定した。これまでの調べでは、同教室は二十三日午後から使っておらず、ストーブも取りはずしてあり、まったく火の気はなかった。同校夜警員、金多吉さん(61歳)は午前一時の巡回の時は異常は認められなかったが、同三時からの巡回で東側校舎から煙が吹き出しているのに気づき、すぐ通報したという。
 同校は卒業式翌日の三月十一日夜にも、火の気のない道具室から出火、十七教室と職員室を焼き、道警と北署は放火の線で捜査しているが、今度の火事はそのさい焼け残った教室。
 このため、同署は、(1)今回も同じむねの道具箱から出火しており、類似点がある。(2)いまのところ漏電は考えられない-などの点から一応放火の疑いが強いとみて、付近の聞き込みに全力をあげている。

 同校は、三月の火災のあと、新学期から体育館を間仕切りして、一部不自由な授業を続けており、今度焼けた教室は、いま建築中の仮教室が出来しだい、解体することになっていた。一年一、二組の生徒は特別教室に収容して、二十五日も平常授業を続けたが、わずか二ヵ月余の間に相次ぐ不審火の連続パンチに、同校関係者はショックを受けている。

●徹底的に原因究名を/長浜栄作校長の話 〈同〉

 こんなことになり、申し訳ない。三月十一日の火災は放火の疑いがあったので、窓の旋錠など点検を特にきびしくしていた。不審火が二度も続くということは、単に北高内部だけの問題ではないので、徹底的に究明してほしい。さいわい授業には支障がないので、生徒たちに動揺することなく、勉強に専念するよう話しておいた。

●警備さらにふやす/道教委、火災防止に抜本策 〈同〉

 道立札幌北高が焼けた二十五日朝、道教委は緊急部課長会議を開き「このままでは道民の信頼を失う。二度の火災を出した同校には同日夜から警備体制を強化、道立学校全体については六月一日から学校火災防止対策本部を発足させ、抜本的な対策を講ずる」ことなどを決めた。
 札幌北高は三月十一日の火災も、今回もまったく火の気のないところからの出火。このため道教委は「北高がとくにねらわれているのではないか」と強い疑いを持ち、一般的な防火体制とは別に、同校だけにしぼって”自主防衛体制”を強化する方針。
 同校の夜間警備は平日は午後九時以降、翌朝の午前八時半まで、ほぼ二時間おきに警備会社から派遣されている警備員一人が校内を巡回、日曜や休日は、このほかにもう一人の学生アルバイトが加わって警戒している。
 これを平日も警備を複数にして、巡回の回数をふやし、また二度の火災が休校日と日曜日に起きていることから休日には警備員をさらに増員、臨時的に教員の休日宿直を復活させる。
 この体制は二十五日夜から実施するが、警備員の数は学校と相談して決める。(以下略)

●北高火災で特捜本部/札幌北署、五十三人が専従 〈同〉

 二十五日早朝の道立札幌北高火災の原因を調べている札幌北署は、現場検証の結果、出火場所を一年一組教室の教壇窓側にある掃除道具窓付近と断定、放火の疑いが強いとして「北高火災特捜本部」(本部長 今堀同署長)を設け、本格的な捜査を開始した。

 これまでの捜査では、有力な証拠は得られなかったが、三月十一日同じむねの十七教室と職員室を焼いた火災も放火の疑いで捜査を進められており、道警本部の応援を得て捜査員五十三人を専従させ、二つの不審火を合せて追及することにしている。

★★★★★ <第3回火災> ★★★★★ 1970年5月28日 3:20頃発生 『7教室を焼失』

●七教室をひとなめ/厳戒下、出火前に人影〈二十八日夕刊 十一面〉

 二十八日未明、道立札幌北高で放火のため普通教室など七教室が全焼した。同校は三月に十七教室と職員室を焼失、この二十五日にも一普通教室の内部を焼き、札幌北署は、ともに放火の疑いが濃いとして「北高火災特捜本部」を設け、本格的な捜査を始めた矢先だった。道警本部、札幌北署は二十八日の火災について、現場検証の結果などから放火と断定、同日朝から付近の聞き込みを綿密にするなど、全力をあげ捜査している。同高校は三十日まで臨時休校する。

 同日午前三時二十分ごろ、札幌市北二五西一一、道立札幌北高(長浜英作校長。生徒数全日制千四百六人、定時制四百八十五人)南側校舎一階の男子便所わきにある物置きから出火、物置きと、南側校舎の新館から西側の部分、木造モルタルニ階建て延べ約六百平方メートルを全焼した。この火事で、普通教室のほか、物理、生物の特別教室など合わせて七教室が焼失した。
 火事を発見した札幌北署外勤課の加藤利男巡査部長(44歳)は「外勤課員四人を学校周辺に立たせ、不審者をチェックさせ、警戒のためパトロールしていたところ、内庭の物置きが燃えているのを見つけた。学校に駆けつけ、事務室にいた夜警員の金さんに窓をたたいて知らせ一一九番してもらった」といっている。

 また同校夜警員の金多さん(61歳)、宿直の清水安次教諭(36歳)らの話によると、一時間おきに巡回をしていたが、午前三時ごろ回ったときには、異常は認められなかった、という。
 札幌北署と市消防局は道警本部の応援で、同日午前九時から現場検証したが、火元は南側校舎一階北側の男子便所わきのトタン屋根の物置き内にあったリヤカーの上の、ゴミを入れた木箱とわかった。物置は入り口にカンヌキがしてあっただけで自由に通り抜けができ、ふだん遅刻する生徒などが通用門がわりに使っていた。

 また出火の五分前、特捜部員と夜警員が、頭にネッカチーフようのものをかぶり、白いトレパンをはいた十六、七歳の人(男女不明)が同校わきのグランドから北方向に立ち去るのを目撃しており、特捜本部は火災との間連性について調べるため捜している。
 同校では卒業式翌日の三月十一日夜、火の気のない道具室から出火、十七教室と職員室を焼き、二十五日未明にもやはり火の気のない一年一組教壇わきの窓側にある掃除道具箱付近から出火、普通教室一教室の内部を焼いており、こんどを含め、普通、特別四十一教室のうち、二十五教室を焼失した。札幌北署は道警本部の応援をえ
て二十五日、これらはともに放火の疑いが強いとして「北高火災特捜本部」(本部長、今堀同署長)を設け、捜査員五十三人を専従させ、二七の不審火を合わせ追及していた。
 二十八日朝の現在検証の結果、同署は(1)まったく火の気のない場所からの出火、(2)いまのところ、失火や漏電は考えられない-などの点から放火と断定、特捜専従員に付近の聞き込みにあたらせるなど、捜査に全力をあげている。
 同校は同日から中間テストにはいる予定だったが、緊急対策会議を開き、今後の方針を協議した結果、とりあえず三十日まで臨時休校にし、六月一日から平常授業を行ない、中間テストも実施することにした。

●前の二回も放火?/出火場所、時間に共通点 〈同〉

 わずか三ヵ月の間に三度も火災に見舞われた札幌北高-しかも一、二度目は放火の疑いが濃く、三度目は放火と断定された。学校火災史上例をみない異常事態に、特捜本部もかつてないほどの捜査員を投入して全力捜査を行なっているが、同校関係者が言うようになぜ「北高ばかりねらい打ちされる」のか、犯人は何者だろう。
 三度の火災のうち、三月十一日は午後七時四十分と、宵の口だったが、五月の二件はともに午前三時すぎという、人通りのなくなる時間の出火で、場所も火の気のない物置きなど、共通点がある。
 特捜本部は。三件の関連性について確証は得ていないものの、出火原因が失火とは考えられない点で、なんらかの共通点があるという見方をとっている。このため全部が放火だとすれば三件とも一人の変質者、あるいは同校に関係ある者のしわざ、また三月と、五月の二件は別人の場合も考えられるとしており、三度目の出火直前現場付近から立ち去ったトレパン姿の人が関係あるかどうかなど、同本部はかなり広範囲に捜査の網を張りめぐらしている。

●”ねらい打ちみたい”/ぼう然の学校側/目の色変える捜査陣〈同〉

 またまた札幌北高が焼けた-三月以来これで三度目、合わせて二十五教室と職員室が灰になってしまった。「一体どういうことなんだろう」ねらい打ちされたような北高関係者と道教委は、大きなショックの中で生徒への影響を考えながらどんな手をうったらよいかまさぐっている感じだ。特捜本部を設けた道警本部、札幌北署も、厳戒を突破されての放火に、早期解決へ目の色を変えている。
 夜明け前、急を知ってかけつけた北高、道教委関係者は、現場を見てさすがにがっくり肩を落とし「ねらい打ちにあったようなもの」と苦悩の色をかくし切れない。

 二十五日の火災以来、それまでの宿直、夜警の二人体制の警備に加え、外の見回り一人をぶやしたが、これも結果的には焼け石に水だった。「三度も火の気のないところから出火が続いては、やはり放火としか考えられない」道教委の中川管理部長や長浜同校校長は、多感な生徒への影響を心配しながらことばを続ける。「職員会議などでも、当直員を増やしてはどうか、それも火災防止の切り札にはならない。先生の疲労から生徒の学力低下を招く、という逆の面もある。だから現状のままであらゆる手段をとって、これ以上不祥事を起こさぬよう、火災防止に全力をあげるほかはない」とすっかり弱り切った表情。
 同校の先生らは、三月以来「宿直の夜は、いつもいやな気持で勤務、一晩中眠れなかった」という。二十五日の火事のあと北署に特捜本部ができ、パトロールが強化されるようになってやっと安心できると思ったのだが、そのきびしい警戒もききめがなかったのではどうしようもない、と口をそろえる。
 捜査員五人を配置しながら、この間をぬっての放火に北署特捜本部が受けた衝撃は大きい。二十五日の火事が市民の寝静まった午前三時すぎだったことから、同本部を設置してからは特に午前二時~四時の間は外勤警察官四人を同校北側に配置、指導者一人がパトロールする厳戒体制をしていた。
 この努力も結局放火を防ぎ得なかっただけにあせりの色が見え始めたが、今堀特捜本部長は「全力投球で短期決戦だ」と語気を強めていた。

●ローヒールの跡も/北高放火事件捜査″不審な人影”に重点〈同日付十六面〉

 二十八日未明、放火で七教室を焼いた道立札幌北高校の火災について、前二回の不審火と合わせて捜査している札幌北署の「北高火災特捜本部」は、約百人の捜査員を動員、同日深夜まで出火直前グランドから立ち去った”不審な人影”の解明を中心に、現場付近一帯で大がかりな聞き込み捜査を行なった。しかし有力な情報は得られず二十九日さらに捜査員をふやして犯人逮捕に全力を注ぐ。
 同本部のこれまでの調べでは、犯人は北高の内部事情にくわしく、比較的学校近くに住むものにしぼられた。これは放火場所が紙くずを捨てる物置きで校舎内部をよく知っていなければ容易に選べない、前二回の火災も放火とすると、今回同様、付近に営業車や車を見た者がいないので徒歩で来たとみられるなどから。

 こうした状況から同本部は出火直前グラウンドから立ち去った”不審な人影”を事件のカギを握る人物とみてその解明に重点を置くことになった。
 その後の調べでこの人影は十六、七歳、青っぽいネッカチ-フをかぶり白のトレパンをはいた全体の感じが女性らしいことがわかった。また姿を消したグランド北端の砂地からゴム長ぐつ、ズックぐつ、ローヒールの三種類の足跡数個ずつを採取した。どれがこの人影のものかは確定されていないが、ローヒールの跡は二十三センチの大きさで歩幅は小さく、不審者が女性だったとすると一致することになる。
 一方、同本部は同校に放火する動機を調べることも捜査の早道とみて教師、生徒から事情を聞いているが、いまのところ一、二、三回の火事に共通するものは出ておらず、考えられる要素として卒業式、入試、学期末試験、中間テストなどの妨害、異常性格の変質行動などあらゆる面から検討、二十九日以降の捜査では刑事捜査員のほか特に公安関係の警官も加え犯人捜査に当たる。

●大がかりな聞き込み続ける/北高放火捜査 〈同日付十四面〉

 放火を含む三回の不審火に見舞われた道立札幌北高の火災原因を捜査している札幌北署北高火災特捜本部は二十九日、道警本部からさらに捜査員七人の応援を得て、総勢六十人が専従、大がかりな聞き込みに当たっている。
 これまでの調べによると、放火の際にガソリンなど油類が持ち込まれた可能性は薄く、この方面からの追及はむずかしいとみられている。ただ一つの有力な手がかりの三回目出火の直前に、同校グラウンドから去った不審な人影の身元はわかっていない。
 一方、同署は四度目の火災を警戒、二十八日夜からこれまでの外勤課員五人に捜査員五人を加え、徹夜で張り込み、同校もガードマン四人のほか、先生三人が自主警備に当たっている。

 以上が、三回にわたる火災の記事である。第一回火災の後、上野秋造校長は、その責を負って自ら身を引いた。その決意を職員が予知して身のひきしまる思いのしたのは、深夜の聾学校を借りての職員会議であったと思う。鎮火したばかりの母校を隣りに見下してのこの会議は、ある人には敗戦の日の興奮と虚脱を思わせるものであった。その中で校宅の奥様方の炊出しのおにぎりに僅かに安らぎを覚えた。
 四月、江差高校から着任した長浜英作校長は、その持ち前の明るく聶落な人柄によって、深刻になっていた職員の意気を大いに鼓舞した。続く二度の火災も、校長の人柄によって、職員の心は再建へ、明るい希望へとかき立てられた。
 体育館、講堂の間仕切り工事、続いて仮設校舎の建築と、火災の重苦しさを逃れるように、連日槌音が響いたのである。

【先生の集合写真】 左端に写っているのが第3回火災の火元の物置か? 後ろの窓に群がる生徒たち(卒業アルバムより)

【火災3年後(1973年10月)の北高の航空写真】 仮設校舎、新築校舎が増えている。左は教員住宅?

【長浜 英作 校長】(卒業アルバムより)